寄らばキリストの陰・聖なるのんき

shirasagikara2014-11-17

「寄らば大樹の陰」ということば。「同じ頼るなら、しっかりしたところに頼れ」という意味です。人間だれしも、仏教の大伽藍、イスラム教の大モスク、カトリックの大聖堂に入ると、小さい自分も、大きなものに包まれて、なにか気持ちが落ちつき、安心感が生まれるのです。
「人は生まれながらにカトリック」ということばもあります。大きな見上げるものが好きなのです。カテドラルとよばれる大教会に一歩足を踏み入れると、まず天井に目が吸い寄せられます。壮麗なアーチの骨組みがかなたまでつづき、そのはるか先の大窓には色あざやかなステンドグラス。足もとにはモザイクのタイル。その荘厳さに「神はここにいられる」という雰囲気に「参る」のです。
しかし、イエスさまは違います。人間がつくった巨大なものは「ひとつの石も、くずされないで、ほかの石の上には残らない」と予言されるお方です。建物でなく、天を見上げ、湖を見つめ、そのかなたの山脈をながめるお方でした。
聖書もそうです。人間がつくった巨大なものは無視します。エジプトでピラミッドを見たはずのヨセフも、モーセもひと言もふれません。パウロは、アテネのアレオパゴスの丘で演説しながら、目の前のパルテノン神殿には無言です。そのパウロがローマに入ったころ、壮麗なフォロロマーノが立ち並んでいたはずなのに聖書は沈黙します。人間が何をしたかでなく、キリストが何をされたかが大事なのです。だから「使徒言行録」は、ペトロやパウロの殉教を百も承知の上で「殉教」もカットします。
「寄らば大樹の陰」。まことの大樹はイエス・キリストだけなのです。わたしの信仰の師・酒枝義旗先生は「聖なるのんき」ということばを残されました。それは「聖」という大樹、つまりキリストさまがが、わたしたちのそばに大樹となって「でんと」そそり立ち、お守りくださっている。そのそばで「のんき」という、ゆるされ軽やかにされた心でゆったり生きている。「聖」と「のんき」がひとつにつながる、そういうキリスト信仰です。そういえば「休む」という字。「木」に「人」がもたれています。「寄らばキリストの陰」。
「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる」(エレミヤ17・7)<写真は庭の柿>