伝道と謝礼 パウロの深呼吸

shirasagikara2014-11-24

伝道者が聖書の話をすると謝礼をいただきますが、伝道者は福音を語るのが第一です。、空の鳥を養われる主を仰ぎお金から手を放しています。報酬は与えられなくて感謝、少なくても感謝。多くて感謝です。
聖書のお話に行って、いただいた封筒に、お金が入っていないことが三度ありました。何も申さず、お心をいただいて感謝しました。わたしも国立国会図書館にいたころ、聖書研究会の講師に、空(から)の封筒を渡したことがあります。親しい友人だったので「入ってないんだよな〜」と教えてくれました。
ところが使徒パウロは、その謝礼をもらわなかったために非難されます。パウロは「コリントの信徒への手紙・第1」の9章でこう書きます。「主は、福音をべ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと指示されました」(14節)。「しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません」(15節)。パウロは、伝道しても報酬を受けなかったのです。「わたしの報酬とは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが(報酬を受ける)当然の権利を用いないことです」(18節)。
パウロの批判者は、これはパウロ自身、自分がほんとうの使徒でないと卑下しているからだと見たのです。そこでパウロは猛然と「わたしは使徒だ!」と反論したのが9章です。
このとき、パウロは深呼吸をし、高ぶる心を整えてから一気に弁明(3節)するのです。「弁明・アポロギア」は「正しいか、間違いかを明らかにすること」です。「弁解・言い訳」ではありません。
そして「わたしは自由な者、わたしは使徒でないか、イエスを見た者だ。伝道をして生活の糧をもらうのは当然だろう。自費で戦争に行くやつがあるか、羊を飼って乳を飲まない者がいるか」と、まくし立てます。
パウロを始め、伝道者は報酬から手を放しています。主が必ず必要なものを備えてくださると信じ切るからです。わたしの記憶では、明治いらいの日本で、生活に困窮し子どもの学資に難儀した伝道者の話は聞きましたが、餓死した伝道者を知りません。主が養われたのです。
脱穀している牛に口籠(くちこ)をはめてはならない」(申命記25・4)<写真はサザンカ