「老人の会話はつねに新鮮」「キリストの福音もつねに新鮮」

shirasagikara2014-12-01

日本では「年寄りの繰り言(ごと)」といって、老人が同じ話をするのをいやがります。しかし白洋舎をつくられた五十嵐健治翁は、それを逆手にとって「老人の会話はつねに新鮮」と言われました。老人同士だと、同じ話でも、前に聞いたことを相手も忘れて「あら、ほんと」と、まるで初めて聞いたように相づちをうってくれるので、「老人の会話はつねに新鮮」となるからです。
そういえば「キリストの福音もつねに新鮮」です。しかしこれは前に聴いたことを忘れているからではなく、なんど聴いてもうれしいお話だからです。ぜんぶ知っているのにまた聴きたい話なのです。
そのキリストの生涯のうち、とくに好まれるのは、その始めと終わりの「クリスマス物語」と「受難物語」です。なぜでしょう。いずれも「弱々しくて勝利する」お話だからです。ひとひねりでつぶせるような赤子。無抵抗で十字架で殺されるイエス。その「弱さの強さ」が人々を引きつけるのです。
ドイツの小さな村のオーバーアマガウで、村人二〇〇〇人総出の「キリスト受難劇」が一七世紀から一〇年に一度、繰り返し上演されています。キリストの受難物語りは、ぜんぶ知っているのに、またしても観たくなり、観ては涙を流す物語なのです。
「基督の一代の劇壮大に果てむとしつつ雷鳴りわたる」(斉藤茂吉)。
「全部知っていて、また聴きたくなり観たくなる」お話は、世界中にたくさんありますが、ギリシア悲劇は西欧世界を出ません。日本の歌舞伎も海外で知る者はまれです。だから「クリスマス物語」と「受難物語」ほど「古く」また「広く」愛されている物語はないのです。
じつは「受難物語」がまずあって、この十字架・復活の「イエスのお生まれはどうだった」とふりかえり「クリスマス物語」が出来たのです。そのため「クリスマス物語」と「受難物語」は固くむすばれ、十字架ぬきのクリスマスはないのです。そうです。クリスマスの「マス」はあの十字架のシンボルのパンとブドウ酒の「ミサ」のことです。「主は、おとめマリヤより生まれ、、、十字架につけられ、死にて葬られ、、、三日目に死人のうちよりよみがえり」(使徒信条)<写真は白いサザンカ