清水望さん、主に召される

shirasagikara2014-12-15

憲法学者の清水望さんが、12月3日(水)主に召された。90歳だった。ご家族を中心にした告別式が12月6日(土)にあった。わたしはご遺族からその司式をたのまれた。
彼の生涯をふりかえると、二本の大きな柱が立っている。一本は「キリスト信仰」。これは90年の巨木だ。もう一本は「憲法学者」としての柱だ。これは66年の大樹。
90歳で、なぜ90年の信仰生活かというと、彼の両親は内村鑑三の弟子で、内村全集にも両親に宛てた内村の手紙が残る。望さんは母の胎内からの「ボーン・クリスチャン」だったからだ。彼は内村の高弟・塚本虎二に私淑し、彼の結婚式を司式した塚本が、「望さん、あなたはクリスチャンとして、この女性を妻として愛することを誓うか」「はい」。「君がもしクリスチャンをやめても、日本男児としてこの女性を愛するか」「はい」。「もし君が日本人をやめても、一人の男としてこの女性を愛するか」「はい」と、たたみかけ退路を断って問いつづけた塚本の激しい式辞を、わたしの耳は忘れない。その仲人はやはり塚本の弟子で、のち最高裁長官になった藤林益三。
もう一本の柱の「憲法学者」は、23歳で早稲田大学を卒業した1948(昭和23)年に始まり、早くも35歳で政治経済学部教授になり、45歳で政治学博士になり、おびただしい著書、論文、翻訳を残し、定年前には早稲田大学の常任理事、副総長もつとめた。彼は学者になるため生まれた男だ。名誉教授になったあとも、毎年ドイツの大学のゲストハウスに長期間、夫人とともに滞在して研究を楽しんだ。
その彼が大学卒業後、3ヵ月だけ国立国会図書館で働いた。そのときわたしと出合った。ひと目でお互い好きになり、変わらぬ友情が66年つづいた。なぜ彼が図書館に来たのか。ああ、神さまが図書館に聖書研究会をつくらせるために、望さんを天使として派遣されたのだ。
1948年春、赤坂離宮(いまの迎賓館)に国立国会図書館が創設されたとき、「石原義盛・清水望・藤尾正人」の連名で「聖書研究会発足」の広告を職員入り口に掲示した。その聖書研究会は66年後のいまもつづく。
「友の振りをする友もあり、兄弟よりも愛し親密になる人もある」(箴言18・24)<写真「えぐられてはらわた赤し木守柿」(正人)>