「一書の人」になるな

shirasagikara2015-03-15

北陸新幹線が3月14日に開通し、わたしの次男一家が住む金沢まで、以前は4時間もかかったのに、わずか2時間半で行けるようになりました。金沢や富山は、これからメディアの報道合戦の渦中におかれることでしょう。
たしかに北陸には、加賀百万石といわれる金沢をはじめ、重なり積み上げられた伝統工芸や食文化、それに雄大素朴な風景があります。それを紹介するとき、ただたんに、「すごい〜」「きれい〜」「おいしい〜」というだけではつまりません。どこが「すごい」のか、なにが「きれい」なのか、どのように「おいしい」のかを伝えるのです。これはすべて、なにかと比較できるとき、深いものになります。「あそこの品物」と、「どこそこの景色」と、「外国のグルメ」とくらべて「こうだ」と言いたいですね。、
つまり「A=A」ではつまらないのです。それはキリスト信仰を説明するさいも同じです。「これはうまい」や「キリストはすごい」だけではなく、一工夫が大事です。
「キリストはキリストです」と肯定するのは、間違ってはいませんが、説明不足でしょう。「キリストはキリストでは、ありません」はキリストの否定ですが、「キリストは、キリストでないものではない」は二重否定でキリストを肯定しつつ、ほかの「キリストでないもの」と比較して、強くキリストを表現できます。ほかとくらべて「キリストはすごい〜」「キリストは美しい〜」「キリストのことばは、おいしい〜」と、説明する時、キリストさまの深みが立体的にうかびあがります。イエスさまご自身も、福音の真理をほかのものと比較して「たとえ話」で話されています。
だから「一書の人」になってはいけないのです。「一書の人」は、聖書なり、論語なりを精読して、ほかの書物に目もくれぬ人です。しかし「一書の人」は、強いけでど、狭くもろい面があります。比較する「他者」が乏しいからです。
内村鑑三新渡戸稲造などの強さの秘密は、若いとき儒学をたたきこまれ、その上にキリスト信仰を接木されたことにあります。けっして「一書の人」ではありません。福沢諭吉も、夏目漱石や、南方熊楠もまたそうです。「一書の人」で満足し、それを誇ってはいけないとおもいます。
「イエスは、たとえを用いて彼らに多くのことを語られた」(マタイ・13・3)<写真はクリスマス・ローズ)