姫路の白鷺城・本物を見る

shirasagikara2015-04-05

<4月からこのブログは、5日、15日、25日掲載の「5の日ブログ」とします>
姫路の白鷺(はくろ)城の大天守閣が「平成の大改修」をへて、2015年3月末、威風堂々とその姿をあらわしました。世界遺産の貫禄です。無名の棟梁が雄大緻密な設計図を引き、当時最高の材料を集め、やはり無名の大工、石工、左官たちが、すみずみまで手抜きのない仕事をしたため、四〇〇年の風雪をしのいでそそり立つのです。
わたしは少年時代、姫路で育ちました。姫路市民はだれも「はくろ城」などとは言いません。「お城」と言います。お城は、内濠、中濠、外濠と三重の濠をめぐらし、姫山という丘の「本丸」には天主閣群がそびえ、旧市内のどこからでもよく見えます。南正面の大手から見れば「端正」。東の搦手(からめて)から天主を仰げば「壮麗」。北面の姫山原始林の上に大天主の上層と小天主群がり重なるさまは「豪壮」。西側は「西の丸」の白壁の上に横顔を見せる細身の天主は「優美」です。
この姫路城のすばらしさは、そこに住んだものでなくてはわかりません。春の桜の夕べ、秋の月夜、夏雲の下、雪の朝も美しいお城です。同時に、そこに住んでいるものには、そのすごさがわからなくなります。お城が「いつでも」「どこからでも」見ることができる身近なものなので、「お城慣れ」してありがたさが薄れるからです。
ちょうどキリストの福音のありがたさは、福音の中に生きているものでなければわからず、同時に、福音のなかで育てられた子どたちは「恵み慣れ」して、そのありがたさが、十分わからないのと同じです。
姫路を離れてわたかったのは、少年の日「本物のお城」を毎日見つづけられた幸いです。日本にもたくさん「お城」があり、それぞれ良いお城ですが、時々「あ、違う」と「良さの違い」がわかるのです。
テレビの、なんとか「鑑定団」の鑑定士が「これは本物、偽物」と判定できるのは、ふだん「本物を見つづけた」鑑識眼のおかげでしょう。キリスト信仰も「本物のクリスチャン」と出会い、見つづけることが大事です。信仰の目が養われ、熱心なようでも「偽物だ」とわかるのです。本物の美を見に行きましょう。本物の信仰を追い求めましょう。キリストご自身は本物の本物です。
「主の御名は力の櫓。神に従う人はそこに走り寄り高く上げられる」(箴言18・10 )