主イエス・キリストへの集中

shirasagikara2015-07-25

わたしが国立国会図書館をやめて伝道者になったとき、あるお歳を召した女性が「いい『おしもべさん』になられるでしょう」と言ってくれました。そのキリスト同信会という集会は、わたしの父が出ていた集会で、わたしは酒枝義旗という無教会系の待晨集会にいたのですが、父母が上京し同居したので、父を喜ばせるため酒枝先生の集会を離れ同信会へ移りました。
待晨集会から同信会へ移ったさいしょは、「すごい聖書の話を聴いた者の不幸」を痛感し、がっかりすることばかりでした。しかしそのうち長所も見えてきました。
その一つは、そのころ主を喜ぶ中年女性たちが多かったことです。それはふつうの教会の女性のように、知的で活動的というのでもなく、無教会の女性のように、勉強好きでギリシア語まで学ぶというのでもない。「聖書の講解」でなく「聖書の味読」が好きで、全身にキリストを喜ぶおもいがにじんでいました。礼拝が終わると、いつもわたしのまわりに来られて「きょうは幸いなみことばを聞かせていただいて」と、若い者を励まし、主をあがめていられるのです。
二つ目は、主キリストを礼拝の中心にすえていることです。教会や無教会では、礼拝といっても、説教や聖書講解が中心になりがちですが、まず主をあがめることを第一にして、それを形にしめし、会衆は毎週、十字架のシンボルのパンとぶどう酒が置かれた机の周りにすわり「主を礼拝」します。この二つが同信会の長所でした。
これはキリストへの集中です。手を伸ばせばキリストにさわれるような近さです。わたしの父も「主よ主よと幼き日より呼びなれしイエス・キリストわれにしたしき」と詠みました。
そこから、使う言葉もちがってきます。リーダーを「牧師」でなく、明治時代は「おしもべさん」と呼び、「礼拝出席」が「主に集められる」となり、「聖書研究」は「みことばを味わう」といい、すべて「主イエス・キリスト」を中心に受身になるのです。
20年前、父も召されて同信会を離れましたが、その短所は見ないで長所は尊敬したいとおもいます。この地上には理想の教会はありません。どの教会もみな長所と短所をかかえています。すばらしいのは主イエス・キリストさまのみです。
「恥はわれわれのもの。憐れみとゆるしは主である神のもの」(ダニエル9・8、9)<写真は蝉殻>