自分はいいことしながら他人を批判する心

shirasagikara2015-08-05

自分はとてもいいことをしながら、それをしない、ほかのかたが気になるのがわたしたちです。
教会の日曜礼拝の時間に、けっして遅れない人がいました。そのかたは郊外から1時間あまりもかけて夫婦でおいでになります。いっぽう毎回礼拝に遅れるかたがいました。このかたは都内の23区の下町にお住まいでした。
あるとき時間に遅れないかたが、「あのかたは、どうしていつも遅れられるのでしょう。少し早めに家を出られたらよいでしょうに」と、わたしに言われました。わたしは、いつも遅れるかたにそのわけをたずねました。その答えはこうでした。
「いや〜」と頭をかきながら、「家から駅まで一本道で、日曜の朝、そこを行くと、知り合いの方々が、あちらから、こちらから『どちらへと』聞かれるのです」。「ところが『はい、教会へ』と答えるには、ふだんの自分がなっていないものですから、恥ずかしくて言えないのです。そこで回り道をするので遅れます」。「早めに出ればいいのですが、家族で教会へ来るのはわたしだけですから、早くとも言えず、すみません。いつも遅れて」。
ところが、そのかたがお祈りをはじめるとすごいのです。祈りのことばは整いませんが、涙を流さんばかりに自分のダメさを悔い、ルカ福音書18章の徴税人のように「目を天に上げようともせず」、せつせつと神さまに語られます。
同じルカ福音書18章で、ファリサイ派のまじめな人は、自分のした良いことを数えあげます。まず「ほかのものとは違い」と比較して、「奪い取るもの」「不正なもの」「姦通を犯すもの」でもなく、「この徴税人」のようでもないと、「ほかのもの」「この徴税人」と、祈りながら横を向いています。これは「水平の祈り」です。
礼拝は神さまと垂直にまじわる時間です。わたしたちは礼拝に来て、なおまわりが気になる情けない心をもっています。かえって礼拝にいつも遅れるかたが、垂直の祈りを涙ながらに捧げていられるのに反省させられました。
「義とされて(罪ゆるされて)家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、あの人(ファリサイ派)ではない」(ルカ18・14)<写真はギボウシの花>