老人だから感動します

shirasagikara2015-10-15

人間だれしも、これが最後の別れとおもうと、しみじみ相手を見つめるでしょう。老人も90歳になると来年生きているかどうかわかりません。何もかもこれが最後かと思うのです。だから感動することも多いのです。
この春、履きなれたズックをスニーかーに替えました。「くたばるのは、お前が先か、おれが先か」とやっているうち、ズックが履きつぶれました。そのとき、履物を買うのは人生でこれが最後だとおもい、「お前とよく旅をしたな」と、手に取り見つめました。老人だからこそ古靴にまで感動するのです。
老人になると呆けてきて、無感動になるとおもわれがちですが、そんな人ばかりではありません。ひと月まえの9月なかば、「安全保障関連法案反対」の大群衆をテレビで見ると、足さえゆるせば駆けつけたくなりました。学者や作家だけでなく、市民、青年、女性、子どもまでデモ行進しています。むかしの戦闘的な労働者・学生中心とは様変わりしていて感動します。
たまに銀座を歩くと「これが見納めかも」とまわりを眺めます。両親の墓参にゆくと「つぎはおれの番だ」とおもいます。一点の雲もない秋空を仰いでも「なんと美しい」と感じ、咲く花々を見ても「来年は見られるか」と見つめ、たまに教会の礼拝に出ても「これが最後かも」と歌声に感動するのです。なにを見ても、どこへ行っても、これが最後かとおもい、万感こめて深く見つめます。
むかしは、どんどん聖書を読んでゆきましたが、このごろは少しずつ聖書を見つめながら読みます。そして何度読んだかわからない聖句に毎回感動するのです。イエスさまはすごいことを言われる。旧約の詩人は深いことを言う。予言者は鋭い。老年の感動は若いころの感動より、終わりが近いだけ深く感じられるのです。
エスさまご自身もよく感動されました。「これほどの信仰は見たことがない」とローマの百人隊長に感動し、カナンの女性に「あなたの信仰が大きい」と驚かれ、鳥が飛んでも、花が咲いても感動されました。イエスさまは、十字架の死を見つめ、これが最後と、日々を歩まれたからこそ深い感動を覚えられたのに違いありません。
毎週の礼拝も「これが最後」とおもってみまわせば、感動に満ちたものになるでしょう。
「人の子は、定められたとおり去ってゆく」(ルカ22・22)<写真は鈴蘭の赤い実>