誓約と結婚 信仰告白と洗礼

shirasagikara2015-11-25

先日、結婚式の司式をしました。新婚のふたりは、神と会衆のまえで宣誓し、「結婚誓約書」に署名しました。ふたりが夫婦の自覚を深めた「あのとき」は、生涯わすれられない「結婚記念日」になるでしょう」。
同じく記憶に残るのは洗礼を受けた「あのとき」です。わたしも19歳の洗礼の記憶は、90歳のいまも、まざまざと覚えています。もちろん洗礼を受けなくても、キリストを信じるだけで、りっぱなクリスチャンです。ちょうど結婚式を挙げなくても、ふたりで役所に届ければ、りっぱに結婚が成立するのと同じです。
しかし、結婚も洗礼も、それを公開の場で宣言した「あのとき」が、あるかないかでは、「わたしたちは夫婦」「わたしはクリスチャン」という喜びと自覚の記憶が違うのではないでしょうか。
キリスト教会では、ふつう洗礼があります。しかし内村鑑三は、1901(明治34)年「洗礼晩餐廃止論」を書いて洗礼、聖餐を無用としました。だから無教会では、原則として洗礼がありません。内村は、ものごとの核心を握り形式を破壊する天才でしたが、洗礼とともに信仰告白まで流してしまったことが悔やまれます。
イギリスで始まった救世軍も洗礼はしませんが「入隊式」で「信仰告白」をします。「じつに人は心で信じて義とされ、口で公に言いあらわして救われる」からです(ローマ10・10)。だから内村鑑三の弟子の矢内原忠雄も、その「キリスト教入門」でこう言います。「決心をしなければだめだ。決心しても黙っていてはだめだ。自分以外のだれかに自分の信仰を言いあらわせばいいのです」(角川選書 164p.)。そうです、信仰告白こそ大事です。告白あっての洗礼です。
内村鑑三の弟子の藤井武に師事した酒枝義旗・早稲田大学教授は、内村の流れの中にいながら、自分の主宰する「キリスト教待晨集会」では「待晨会堂」を建て、夏の聖書講習会では聖餐をし、希望者に洗礼をしました。酒枝の後継者はいまも洗礼をします。無教会伝道者の堤道雄は「無教会の失敗は会堂を建てなかったことだ」とわたしに言いました。わたしは「信仰告白を無視したことも」と加えます。前々週の「宮沢賢治とクリスチャン」で、花巻の無教会が消え、バプテスト教会が花巻教会として健在なのも、これらと無縁ではありますまい。
「口でイエスは主であると公に言いあらわし、心で神がイエスを死人の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10・9)<写真は小菊>