闇夜の海底行進の「一歩」また「一歩」

shirasagikara2015-12-05

旧約聖書の「出エジプト記」14章に、海が割れてイスラエルの民衆が「闇夜の海底行進」をした記事があります。
彼らはリーダーのモーセにひきいられ、エジプト大脱走(エキソダス)の旅に出るのですが、そのしょっぱなから「迂回」(13・8)や、「引き返し」(14・2)を重ねます。人生の長旅も同じです。まっすぐ入学できない。再就職して新人として働くこともあります。それがその人に、しなやかな強さをはぐくむのです。偉くなられた方の「回顧録」でも、この「迂回」と「引き返し」があって今の自分があると感謝されます。
意気揚々と脱出したはずなのに、エジプト騎馬軍団の追跡が迫ると、民衆は意気消沈し悲鳴を上げます。このとき、三者三様の「目線」の違いが目立ちます。
まずモーセ。彼は「上を見て」「前を見て」「全体を見ました」。神と将来と民衆を見たのです。これこそリーダーの態度です。イスラエルの民衆は「下を見て」「自分を見て」「過去を見ました」。地上のこと、自分の取り分のこと、むかしは良かったという思い。これは奴隷根性です。エジプトの王・ファラオは「安価な労働力の流失を見て」怒り、「非武装イスラエルを見て」侮り、「自分の精強な騎馬軍団を見て」誇りました。
その騎馬軍団が追尾したとき、モーセは杖を高く上げ手を海に差し伸べます。すると「夜もすがら激風が海を押し返し水が分かれた」(21節)とあります。
このとき映画「十戒」のように、イスラエルの民衆の前に、ず〜と先まで海底の広い道があらわれたのでしょうか。そうではなく、先頭集団が、モーセのことばを神の声と信じて、一歩、足を水に踏み込んだとき、水はさっと引き、また一歩進むと、また一歩分引いてゆく。そのくり返しではなかったでしょうか。
しかも闇夜の海底行進です。いつ崩れるかも知れない水の壁は、わたしたちの、おぼつかない人生そのものです。しかも主は、毎日の一歩を守り、また一歩進ませてくださるのです。そして人は60歳となり、70歳に達し、80歳を越え、90歳を迎えます。すべて主に導かれての「一歩」また「一歩」です。「ひやひやしながら大丈夫」の人生です。
そのさい、頼りないモーセの一本の杖に威力があったのです。ちょうど一本の、キリストの十字架に、全世界の救いの威力があったように。
イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなるみ業を見た」(出エジプト14・31)<写真は実生のツバキ。ことし初めて花を咲かせた>