同じ話をまた聴きたい

shirasagikara2015-12-15

「きょうと同じ話をもう一度してください」と頼まれたことが三度あります。日本で二回、韓国で一度。
ふつう聖書の集会で同じ話は禁物です。わたしが伝道者になったとき、父・英二郎は「同じ場所で、同じ話を少なくても二年間はするな」と戒めました。偉いキリスト教の先生が、招かれた教会での講演で、前年と同じ話をしてみなが失望したと言っていました。わたしはそれいらい手帳に、いつ、どこで、どんな話をしたかを記録して、同じ話をしないよう注意しました。それでも、うっかり同じ場所で同じ話を短い間隔でしていることが記録にあり恥ずかしくなります。
しかし考えてみれば、福音はイエス・キリストの十字架と復活に焦点をしぼり、手をかえ品をかえて2000年間、同じ話を世界中でしているのです。だから父は「同じ話をすることを恐れるな」とも言いました。「木村清松という牧師は、いつも同じ話をされたが話に力があった。話の前の祈りがよほど深かったに違いない」と感心していました。
そういえば落語は同じ話でお客を笑わせます。それでいて、客はわざわざお金を払って寄席に行き、よく知っている同じ話にどっと笑うのです。なぜ同じ話をみなが喜ぶのか、不思議に思ったわたしの信仰の師・酒枝義旗先生は、よく寄席に通って話術のコツを研究されたそうです。聖書の話でも、かならず一度は笑わせる「話の名手」の先生が。
使徒パウロが、いまのトルコのピシディアのアンティオキアで伝道したさい「同じ話をしてくれ」と頼まれています。同じ話を頼むのは、忘れないように、もう一度よく聴きこんで心に刻んでおきたい話。また自分たちだけでなく、もっとたくさんの方々に聞かせたい話なのでしょう。
また一度聞いただけで、生涯忘れられない話もあります。わたしの父は若いころ、白洋舎の五十嵐健治初代社長が話された聖書のことばを、震える感動をもって聞いたらしく、生涯に何度も集会で、その五十嵐健治翁の聖書の長い話を暗誦して聞かせました。感動して聞いた話は忘れがたく、感動をもって語りつがれ、また人々に感動を与えるのです。それが福音の物語りです。
同じ内容でも何度も聞きたい話があります。 「われに聞かしめよ 主の物語り 世にもたぐいなく よき物語り」(聖歌444)。
「人々はつぎの安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」(使徒13・42)<写真はカエデの紅葉>