書・自分流に生きる

shirasagikara2006-02-19

上野で日本・中国の「書の至宝展」を見た。
王義之や仏教径典写経の端正な書体が、平安期のかな文字から、日本語書体はふくらみを帯び一気に美しくなる。それが会場最後の良寛の六曲一双の屏風に結実。これは「かな」かと見まごうばかりの「漢詩」の自由さ、柔らかさ。中国の草書の流れだろう。
「書」は独特の自己表現の芸術だ。絵画や彫刻だと師匠が最後に手を入れると作品が一変することがある。しかし「書」は他人が手助けできない。また最初の一行は納得できても、二行、三行、十行目での失敗があると書き直しだ。
だから書はその人自身だ。おおらかな人はおおらかな字を、真面目な人は真面目な字になる。パソコンの普及で手書きの機会は減ったが、「字を書く」ことからわたしたちは離れられない。そのさい下手は下手なりに、自分流の表現を一生懸命にすればいい。
キリスト信仰も書と同じこと。一生懸命に自分流でキリストを目当てに毎日を生きればいい。
「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」(ガラテヤ6・5)