数えてみよ主の恵み

わたしに数えぐせがある。駅の階段を登り下りしながら「28、29、30段」と数えている。朝の運動でも「35、36、37回」と身体をまげる。キュウリを刻みながら自然に100、200と数える。
そのキュウリに限らず、ニンニク、キャベツ、ゴボウなど刻みものは、家内に「あなた上手ね」とおだてられてわたしが刻む。ふと見るとわたしがキャベツを刻む横で、家内がゆったり新聞を広げている。むかしと逆の平和な光景。
キュウリは20センチくらいだと、左手を猫手に曲げて、ずらしながら250から300枚に「削る」。薄いのはむこうがすける。「これなら料亭に出せるわ」と家内はほめ上手。
キュウリをトントン数えながら「数えてみよ主の恵み」という聖歌を思い出す。「望みも消え行くまでに/世の嵐に悩むとき/数えてみよ主の恵み/汝が心は安きを得ん/数えよ主の恵み/数えよ主の恵み/数えよひとつずつ/数えてみよ主の恵み」(604番)。
日本敗戦の中国で、牧師の主人は連行。自分は子どもをかかえて失明。そのときこの聖歌で、自分に無いものでなく、自分に残された恵みを数えて勇気を得た女性がいた。
「いかに神の計らいは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く」(詩篇139・17、18)