味盲と聖書

味盲(みもう)という言葉がある。「広辞苑」では「ある種の物質の苦味を感じることのできない人」とある。ひらたく言えば味に鈍感ということだ。
研究によるとフランス人や中国人は味盲が少なく、日本人は民族としては中の上らしい。しかし刺身など素材を生かした食物を好む日本人は、案外舌は鋭敏かも。
数人でフランス料理をいただいたとき、招待者が「今のフォアグラはいかがでした」と聞いた。すると「えっ、そんなのありましたか」と答えた者がいた。
空腹のときは、味など考えずガツガツたべる。しかし上品な食材はゆっくり味わう。
聖書の読み方も3段階がある。最初は「自分が聖書にかぶりついて読む」。つぎはこの聖書、だれが、いつ、どこで、なんのために書いたかと気にして、辞書を引き、地図を調べて、「少しゆっくり読む」。最後は「聖書に自分が読まれる」。聖書がわたしに問いかけ、聖書に包まれる。
泳ぎも始めは浅瀬。つぎは背が立つ深さ。それから深みへ泳ぎだすように、聖書の深みを探るのだ。聖書にはたった1句に無限の味があり、全体をつかむとその味わいが深い。
「聖書の味盲」は「ガツガツ読み」を卒業すれば治るはず。
「その巻物を食べると、それは蜜のように口に甘かった」(エゼキエル3・3)