舌の記憶・最後の晩餐

ほんとうにおいしいものを食べた記憶は長く残るものだ。
銀座のスエヒロで、初めて牛タンを食べたときの驚き。同じかたに、日本橋のお座敷てんぷらをご馳走になった。座敷なのに足を下ろして目の前で揚げてくれた味。日本が米国と戦争を始めたころだが、忘れない。
京都の夏、鱧をひと箱たいらげた記憶。岡崎で蝦蛄を腹いっぱい食べた体験。本場の讃岐うどんの歯ごたえ。郡上八幡鰻屋で、二段がさねの鰻が、食べても食べても下からあらわれた醍醐味。山形天童のさくらんぼ園ではしごに登り、佐藤錦を枝からむさぼり食べ、種を吐き出した唇の思い出。北海道は常呂のほたての美味。いまもあざやかだ。いずれも伝道でまわったさい、ふるまいにあずかったものばかり。
ある老婦人の一周年の記念会の席上。お孫さんが「おばあちゃんは、たずねて行くと、いつも最上等のおすしをご馳走してくれた」と感話した。美味しいものを振舞っておくと、子どもでも忘れないのだ。
エスさまが、最後の晩餐で、パンとブドウ酒を弟子たちに与えた。パンとブドウ酒はキリストの十字架のシンボルだ。しかも、ふだん食べている、なんでもないものに深い意味を与え、弟子たちの舌を記憶装置にされたことがすごい。
「取って食べよ、それはわたしのからだ」と言ってパンを与え、
「みな、この杯から飲め。多くの人のために流される、わたしの血、契約の血である」と言って、杯をまわされた。
弟子たちは、改まった師匠のことばと面持ちに、緊張しながらパンとブドウ酒を受けた。そのさい「手で触れ」「目で見つめ」「舌で味わった」のだ。つまりイエスは十字架の深い意味を、頭と耳だけでなく、手と目と舌に焼き付けたのだ。とくにこの舌の記憶は長く残る。二〇〇〇年も残っている。「わたしは命のパンである」「わたしは天から降ってきた生きたパンである」
ヨハネ福音書6・48、51)