白い蝶と雪ノ下とイエス

shirasagikara2010-06-14

ぬれ縁にすわっていると、2羽の白い蝶がもつれるように、上になり、下になり、庭をかけめぐる。やがて1羽が飛びさった。のこりの蝶は高く低く、どの花にとまるでもなく舞いつづける。とまるべき花の品定めをしているようにも見えた。それはわたしの膝近いシランでもなく、紫の花が白にかわったバンバノマツリでもなく、咲き始めたストケシアでもなかった。おどろいたことに、蝶はつくばいの根方に群れ咲くユキノシタにとまった。ユキノシタは目立たぬ花だ。その草はこの6月、白い小花を咲かす。
白い蝶がその小花にとまると、ふたつの羽を1本にたたみ、タテに見ると、そこに蝶がいるとも思えない。蝶はすぐ舞いあがってつぎの小花にとまる。蝶が舞い去ったあと、カメラを構えて待っていると、また舞い戻って、つぎつぎユキノシタの小花だけに飛び移る(写真)。
なぜちいさな白い蝶が、ちいさなユキノシタの小花にとまるのか。神の愛のはからいだ。バラや、ボタンや、シャクヤクは、そこに咲いているだけで存在感がある。香りもよく、人をひきつける。だれがユキノシタにふりむくものか。
人間社会も同じだ。テレビによく出る政治家やタレントは、ピンと立ったバラや、アヤメだ。自分の窮状を訴えるすべのない「無告の民」は、ユキノシタのようなもの。だれもふりむきもしない。
そこへイエス・キリストがあらわれたのだ。その教えが、そのわざがすごかった。あまりのことにキリストを待望したバプテスマのヨハネさえ、これがキリストのすることかと疑った。イエスヨハネの目に小さいことと映ることをされたからだ。盲人をいやし、足の不自由な人を歩かせ、貧しいひとびとに、慰めの福音を語り、社会をひっくり返すような大きなことをされなかったからだ(ルカ福音書7章)。しかし、その小さなことへの集中が、すごいことなのだ。
エスの目はつねに「無告の民」にむけられた。あのユキノシタのような連中だ。おかれた場所で苦しみながら懸命に生きている人々だ。そんなことで社会を変えられるか、占領軍のローマを追い出せるかと、イエスに失望する人々もいた。しかし300年たつと、そのローマ帝国キリスト教を国教にしていた。「無告の民」を愛して十字架で死に、復活したイエスが内がわからローマを変えたのだ。そしていまも。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12・32)