柔らかいリベラルな天皇と、安倍総理の固い保守

shirasagikara2015-08-25

8月15日の敗戦70年・戦没者追悼式での「天皇のことば」と、安倍総理の「70年談話」は基本で違いました。天皇が自分の思いで「さきの大戦に深い反省」を述べたのに、総理は「侵略」「植民地支配」「反省」を、従来のことばの引用で語ったからです。
つまり、天皇安倍総理と立ち位置が違うのです。「天皇がリベラル」で、「総理は固い保守」なのです。たとえば昭和天皇も今の天皇も、A級戦犯合祀後の靖国神社へは一度も足を運びません。安倍総理は就任直後に、靖国神社を電撃参拝して中韓両国から総反発を受けています。
日本の「天皇家」はカリスマ的支配者でありながら、鎌倉幕府成立いらい800年間、武力も政治権力も経済力もありません。気位だけ高く、徳川末期までずっと宮廷料理も持てなかった貧しい王朝です。ただし詩歌、文学、芸術、教養の面では世界に傑出した王家でした。日本の今の天皇家は、賢明で、つつしみ深く、教養ゆたかなリベラル派なのです。
しかも平成の天皇は、皇太子時代、父・昭和天皇の発案で、プロテスタントのクエーカー教徒・ヴァイニング夫人から、弟の常陸宮とともに教育を受け、英会話と教養を身につけました。それが多感な少年期だっただけに、そのリベラルな影響は骨身にしみたはずです。だから学校での「君が代・日の丸」も「強制でないのが望ましい」と発言するのです。皇后も熱心なカトリック教徒の娘で、カトリック系の女子大を出ています。
先代の昭和天皇はリベラルな心情を持ちつつ、軍部に押され結局その手は血にまみれました。それにくらべ今の天皇、皇后は、戦没者遺族や災害被災者のかたわらに、身をかがめ語りかけます。わたしにはその姿と、世界の戦災地や被災地に真っ先にかけつけ、敵味方の区別なく援助するクエーカー教徒の姿が二重写しに見えます。
いまの日本はリベラル派が影をひそめ、安倍流の保守全盛時代です。リベラル派の旗手「朝日新聞」までも「従軍慰安婦誤報問題」でつまずきました。日本のメディアから「リベラル」の文字が消えたなか、「固い天皇制」の中に「柔らかいリベラルな天皇家」が、からくも残っている姿は不思議な眺めです。
「神は時を移し、季節を変え、王を退け、王を立て」(ダニエル2・21)<写真はギボウシ

「明治生まれ」が「大正生まれ」を戦場に

shirasagikara2015-08-15

きょう2015年8月15日は、70年目の敗戦記念日です。70年前のきょう終わったあの戦争は「明治生まれの政治家・官僚・高級参謀」が「大正生まれの若者」を殺した戦争でした。いままた戦争を知らない「昭和生まれの政治家や防衛官僚」が「平成生まれの若者」を戦争に追いやるかもしれない「安全保障関連法案」をつくろうとしています。
そんなことは「絶対にない」「まったくありえない」「今後もない」と、安倍総理が言い切っても、はたしてそうでしょうか。
むかし国立国会図書館に勤めていたころ、書庫の中で全国から集まった「学校名簿」を調べて驚きました。どの学校名簿でも大正生まれ、とくに大正6年(1917)から10年(1921)生まれの5年間に「戦死」が集中しているのです。そこには「名前」のつぎに「戦死」とだけ印刷され「住所」がなく、「戦死」「戦死」「戦死」「戦死」と連続して不気味でした。
なぜかというと、大正元年(1912)生まれが、兵役適齢年齢の20歳になった昭和6年(1931)に満州事変がおこり、大正の終わりの15年(1926)生まれが20歳になった昭和20年(1945)に大戦争が終わったからです。大正時代はわずか15年しかありません。その15年間に生まれた若者が、あの「15年戦争」とすぽっと徴兵年齢が一致したのです。
明治生まれで戦死が少なかったのは、まだ戦争も小規模で、日本軍が優勢だったころの戦闘だったからです。大正6年から10年生まれがたくさん戦死したのは、彼らが部隊の中核になったころ、絶望的な広い戦場で戦ったからです。昭和生まれで戦死したのは「予科練」「少年戦車隊」などの志願兵だけでした。
「明治」とか「大正」という区分は、天皇死去のための偶然の区切りですが、あの戦争で死んだのは、ほとんど大正に生まれた青年でした。その大正14年生まれのわたしが、90歳になっています。大正生まれだからわかるのです。
いまの国会議員や防衛官僚はすべて「昭和生まれ」でしょう。自衛隊員はほとんど「平成生まれ」でしょう。いつの世も政治家や高級官僚は後ろにいて、若者を前へ押し出すのです。押し出されて帝国陸軍に入隊する前に、苦しみ、キリストを信じて安堵した、あの悲痛な経験をわたしは忘れません。この法案は廃案にすべきです。
「兵役に就くことのできる20歳以上の者を部隊に組んで登録しなさい」(民数記1・3)<写真は忍冬の赤い実>

自分はいいことしながら他人を批判する心

shirasagikara2015-08-05

自分はとてもいいことをしながら、それをしない、ほかのかたが気になるのがわたしたちです。
教会の日曜礼拝の時間に、けっして遅れない人がいました。そのかたは郊外から1時間あまりもかけて夫婦でおいでになります。いっぽう毎回礼拝に遅れるかたがいました。このかたは都内の23区の下町にお住まいでした。
あるとき時間に遅れないかたが、「あのかたは、どうしていつも遅れられるのでしょう。少し早めに家を出られたらよいでしょうに」と、わたしに言われました。わたしは、いつも遅れるかたにそのわけをたずねました。その答えはこうでした。
「いや〜」と頭をかきながら、「家から駅まで一本道で、日曜の朝、そこを行くと、知り合いの方々が、あちらから、こちらから『どちらへと』聞かれるのです」。「ところが『はい、教会へ』と答えるには、ふだんの自分がなっていないものですから、恥ずかしくて言えないのです。そこで回り道をするので遅れます」。「早めに出ればいいのですが、家族で教会へ来るのはわたしだけですから、早くとも言えず、すみません。いつも遅れて」。
ところが、そのかたがお祈りをはじめるとすごいのです。祈りのことばは整いませんが、涙を流さんばかりに自分のダメさを悔い、ルカ福音書18章の徴税人のように「目を天に上げようともせず」、せつせつと神さまに語られます。
同じルカ福音書18章で、ファリサイ派のまじめな人は、自分のした良いことを数えあげます。まず「ほかのものとは違い」と比較して、「奪い取るもの」「不正なもの」「姦通を犯すもの」でもなく、「この徴税人」のようでもないと、「ほかのもの」「この徴税人」と、祈りながら横を向いています。これは「水平の祈り」です。
礼拝は神さまと垂直にまじわる時間です。わたしたちは礼拝に来て、なおまわりが気になる情けない心をもっています。かえって礼拝にいつも遅れるかたが、垂直の祈りを涙ながらに捧げていられるのに反省させられました。
「義とされて(罪ゆるされて)家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、あの人(ファリサイ派)ではない」(ルカ18・14)<写真はギボウシの花>

主イエス・キリストへの集中

shirasagikara2015-07-25

わたしが国立国会図書館をやめて伝道者になったとき、あるお歳を召した女性が「いい『おしもべさん』になられるでしょう」と言ってくれました。そのキリスト同信会という集会は、わたしの父が出ていた集会で、わたしは酒枝義旗という無教会系の待晨集会にいたのですが、父母が上京し同居したので、父を喜ばせるため酒枝先生の集会を離れ同信会へ移りました。
待晨集会から同信会へ移ったさいしょは、「すごい聖書の話を聴いた者の不幸」を痛感し、がっかりすることばかりでした。しかしそのうち長所も見えてきました。
その一つは、そのころ主を喜ぶ中年女性たちが多かったことです。それはふつうの教会の女性のように、知的で活動的というのでもなく、無教会の女性のように、勉強好きでギリシア語まで学ぶというのでもない。「聖書の講解」でなく「聖書の味読」が好きで、全身にキリストを喜ぶおもいがにじんでいました。礼拝が終わると、いつもわたしのまわりに来られて「きょうは幸いなみことばを聞かせていただいて」と、若い者を励まし、主をあがめていられるのです。
二つ目は、主キリストを礼拝の中心にすえていることです。教会や無教会では、礼拝といっても、説教や聖書講解が中心になりがちですが、まず主をあがめることを第一にして、それを形にしめし、会衆は毎週、十字架のシンボルのパンとぶどう酒が置かれた机の周りにすわり「主を礼拝」します。この二つが同信会の長所でした。
これはキリストへの集中です。手を伸ばせばキリストにさわれるような近さです。わたしの父も「主よ主よと幼き日より呼びなれしイエス・キリストわれにしたしき」と詠みました。
そこから、使う言葉もちがってきます。リーダーを「牧師」でなく、明治時代は「おしもべさん」と呼び、「礼拝出席」が「主に集められる」となり、「聖書研究」は「みことばを味わう」といい、すべて「主イエス・キリスト」を中心に受身になるのです。
20年前、父も召されて同信会を離れましたが、その短所は見ないで長所は尊敬したいとおもいます。この地上には理想の教会はありません。どの教会もみな長所と短所をかかえています。すばらしいのは主イエス・キリストさまのみです。
「恥はわれわれのもの。憐れみとゆるしは主である神のもの」(ダニエル9・8、9)<写真は蝉殻>

国立国会図書館調査局で働いて

shirasagikara2015-07-15

7月6日(月)の朝日新聞・朝刊に「書庫に差す真理の光」という1ページの国立国会図書館紹介記事が載りました。
そこには、巨大な地下8階の新聞・雑誌書庫や、蔵書が東京本館だけで2632万点とかが紹介されています。そして閲覧者の貸し出し大カウンターの上の「真理がわれらを自由にする」の文字は、この図書館の設立理念で、新約聖書に由来するとありました。
わたしはこの図書館に勤めましたから、みなさん「藤尾さんは図書館員・ライブラリアン」と見なされがちですが、図書館の司書の仕事をしたことは一度もありません。だいたい調査局の「調査マン」でした。
この大図書館のおこりは、日本の敗戦の翌年(1946・昭和21)に、東京大学大内兵衛教授らが、「日本がアメリカに敗れたのは、日本の帝国議会には米国のように強力な議会図書館がなく、官僚の出す法案の是非を判断する資料群も頭脳集団も持たず、行政の言いなりになったからだ」と、貴衆両院に「議会図書館設置の請願」を出され採択されたのが始まりです。
新しい国会にシンクタンク(諸分野の専門研究機関)をつくろうとして国会図書館が出来たのです。だから国立国会図書館の中心に調査局(正式には調査及び立法考査局)がありました。つまり図書館の中に調査局があるのでなく、調査局を支援するため日本最大の図書館が形成されたのです。
館長は大臣待遇でした。800名あまりの職員のうち、調査局には150名ほどが10ほどの専門部門に配置され、十人あまりの次官待遇の専門調査員がいました。東大教授や気象庁長官や、各省の次官経験者、朝日、毎日新聞から専門家も来られ、局内から昇進するものも多く、わたしの上下左右の同僚に旧制の博士がおり、そこは人材の森でした。またその仕事のおもしろかったこと。国会議員の質問に答え、国会審議に役立つ内外の資料を準備するのですが、なにしろ日本最大の書庫を自由に利用でき、毎日、本を読んで原稿を書くのが仕事というありがたさで、わたしでも学術会議の選挙権がありました。
また聖書研究会をつくり無教会からカトリックまでひとつに集まり、これまた楽しい集会ができました。それは67年後の今もつづいています。主のあわれみです。
「書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる」(コヘレト12・12)<写真は水引草>

キリストを信じるさまざまな道筋

shirasagikara2015-07-05

「だめだなあ、おれという、人間は」(タライポーロス・エゴー・アンスローポス)とパウロは嘆きました(ローマの信徒への手紙7・24)。「こういう痛切な回心を経験しなければ、ほんとうのキリスト信仰ではない」という人がいます。そんなことはありません。罪に苦しみ抜くことなく、すなおに、す〜とキリストを信じたかたも、りっぱなクリスチャンです。
罪に苦しんでキリストを信じたものがとくに偉いわけでもなく、すなおに入信したかたの信仰の位が低いわけでもありません。すごい回心体験は声が大きく、みなから一目おかれがちですが、人間の体験など、たいしたことはありません。キリストの十字架だけが偉大なのです。
ただ、自分の罪けがれや弱さに苦しんで、キリストを信じたかたは、同じ罪に苦しむものを導くことができます。
ちょうど病気で苦しんだあげくキリストにまで導かれたかたは、病人は信仰に入りやすいと考えがちですが、そんなことはありません。ただ「同病あいあわれむ」の格言どおり、病気への同情が深く、病人の心に寄り添えますから、病気の方々の入信のお手伝いはしやすいでしょう。
つまりキリストさまが大きいのです。熱烈な信仰も、平凡な信仰も、ぜんぶつつんで良しとしてくださるのです。人は、人間の熱心でキリストを信じるのではありません。主のあわれみなのです。
キリストへと導かれる道筋は人それぞれです。多くの場合、キリストを信じようと決心するきっかけは、牧師の説教を聴いたときでも、有益な信仰の書物を読んだときでもなく、平凡なクリスチャンが、日常ふつうの生活で、喜んでキリストをあがめているのを見たときです。なにげない女性たちの主を喜ぶ会話が人を回心させるのです。
井上くにえさんは、母上が帰宅すると、いつも座敷の真ん中にすわり、羽織のはしをぱっとはね、両手をつき「主さま、ただいま帰りました」と祈る姿を物陰から見て主を信じたと話されました。わたしも父が就寝まえ、一人祈っている姿を見て「父の信仰は本物だな」と感じました。これもすべてキリストのお働きです。
「キリストのお陰で、今の恵みに信仰により導きいれられ」(ローマ5・2)<写真はムクゲ・底紅>

マニラの「日比聖書教会」と横川知親牧師

shirasagikara2015-06-25

さきごろ、フィリピンから「日比聖書教会」の横川知親(よこがわ・ともちか)牧師が、わが家をたずねてこられました。六五歳。もう三五年もマニラを中心に、現地に溶け込んだ伝道をされています。
彼に英会話を教えた米国宣教師が、溺れる二人の日本人を助けて自身は死にました。これを機に回心し、その宣教師の出た神学校で学び、同じ教会の看護師と結婚して、フィリピン伝道に向かいます。三〇歳のときです。
そのころマニラでは、銀行も、郵便局もでたらめで、送ったお金をぜんぶ取られてしまいます。二人はスラムのような場所に住み、ごはんに塩をかけて食べていると、隣の女児がスープを持ってきて「お母さんが、かわいそうだから持ってゆけ」と言ったそうです。だから横川牧師自身、明日食べるものがない貧しさを、フィリピン人に助けられながら、開拓伝道を始めたのです。
フィリピンで日本人が伝道するさい、特別の困難があります。それはフィリピンがカトリック教国というだけでなく、七〇年前のアジア太平洋戦争で、日本がフィリピンを占領したころ、フィリピン人を虐殺、虐待した事実です。
のち大統領になったキリノさんは、夫人を日本兵に殺され、四人の子どもの三人も殺され、四人目の子どもは、お姉さんが銃剣で刺し殺されるのを目の前で見ました。あの隣りに住みスープをくれたアミーさんも、日本軍に家を追い出され、強姦をおそれて頭を丸刈りにし男装で逃げまわったそうです。そういう中での日本人の伝道は、アメリカや韓国の宣教師とはわけがちがいます。
彼は浮浪児を集める施設をつくり子どもを学校に出し、やっと大きくなると、お金のある米国宣教師になびきます。しかし日本人牧師から離れない子どもたちが、また別の子どもたちを連れてきて、家族のように団結した教会ができあがります。その中から早くも六年目には日本の神学校を出て横川牧師の副牧師になる者も生まれます。
横川牧師は主が起こされたまことの伝道者です。お子たちもフィリピン人の小学校から学び、長女は現地の方と結婚し、長男はジャズ歌手として教会を援けています(千葉・大網集会編「横川知親談話・フィリピンに遣わされて」九十九の風文庫三、二〇一三年)。 「全世界に行って福音を宣ベ伝えなさい」(マルコ一六・一五)<写真はノウゼンカ>