マニラの「日比聖書教会」と横川知親牧師

shirasagikara2015-06-25

さきごろ、フィリピンから「日比聖書教会」の横川知親(よこがわ・ともちか)牧師が、わが家をたずねてこられました。六五歳。もう三五年もマニラを中心に、現地に溶け込んだ伝道をされています。
彼に英会話を教えた米国宣教師が、溺れる二人の日本人を助けて自身は死にました。これを機に回心し、その宣教師の出た神学校で学び、同じ教会の看護師と結婚して、フィリピン伝道に向かいます。三〇歳のときです。
そのころマニラでは、銀行も、郵便局もでたらめで、送ったお金をぜんぶ取られてしまいます。二人はスラムのような場所に住み、ごはんに塩をかけて食べていると、隣の女児がスープを持ってきて「お母さんが、かわいそうだから持ってゆけ」と言ったそうです。だから横川牧師自身、明日食べるものがない貧しさを、フィリピン人に助けられながら、開拓伝道を始めたのです。
フィリピンで日本人が伝道するさい、特別の困難があります。それはフィリピンがカトリック教国というだけでなく、七〇年前のアジア太平洋戦争で、日本がフィリピンを占領したころ、フィリピン人を虐殺、虐待した事実です。
のち大統領になったキリノさんは、夫人を日本兵に殺され、四人の子どもの三人も殺され、四人目の子どもは、お姉さんが銃剣で刺し殺されるのを目の前で見ました。あの隣りに住みスープをくれたアミーさんも、日本軍に家を追い出され、強姦をおそれて頭を丸刈りにし男装で逃げまわったそうです。そういう中での日本人の伝道は、アメリカや韓国の宣教師とはわけがちがいます。
彼は浮浪児を集める施設をつくり子どもを学校に出し、やっと大きくなると、お金のある米国宣教師になびきます。しかし日本人牧師から離れない子どもたちが、また別の子どもたちを連れてきて、家族のように団結した教会ができあがります。その中から早くも六年目には日本の神学校を出て横川牧師の副牧師になる者も生まれます。
横川牧師は主が起こされたまことの伝道者です。お子たちもフィリピン人の小学校から学び、長女は現地の方と結婚し、長男はジャズ歌手として教会を援けています(千葉・大網集会編「横川知親談話・フィリピンに遣わされて」九十九の風文庫三、二〇一三年)。 「全世界に行って福音を宣ベ伝えなさい」(マルコ一六・一五)<写真はノウゼンカ>