キリストを信じるさまざまな道筋

shirasagikara2015-07-05

「だめだなあ、おれという、人間は」(タライポーロス・エゴー・アンスローポス)とパウロは嘆きました(ローマの信徒への手紙7・24)。「こういう痛切な回心を経験しなければ、ほんとうのキリスト信仰ではない」という人がいます。そんなことはありません。罪に苦しみ抜くことなく、すなおに、す〜とキリストを信じたかたも、りっぱなクリスチャンです。
罪に苦しんでキリストを信じたものがとくに偉いわけでもなく、すなおに入信したかたの信仰の位が低いわけでもありません。すごい回心体験は声が大きく、みなから一目おかれがちですが、人間の体験など、たいしたことはありません。キリストの十字架だけが偉大なのです。
ただ、自分の罪けがれや弱さに苦しんで、キリストを信じたかたは、同じ罪に苦しむものを導くことができます。
ちょうど病気で苦しんだあげくキリストにまで導かれたかたは、病人は信仰に入りやすいと考えがちですが、そんなことはありません。ただ「同病あいあわれむ」の格言どおり、病気への同情が深く、病人の心に寄り添えますから、病気の方々の入信のお手伝いはしやすいでしょう。
つまりキリストさまが大きいのです。熱烈な信仰も、平凡な信仰も、ぜんぶつつんで良しとしてくださるのです。人は、人間の熱心でキリストを信じるのではありません。主のあわれみなのです。
キリストへと導かれる道筋は人それぞれです。多くの場合、キリストを信じようと決心するきっかけは、牧師の説教を聴いたときでも、有益な信仰の書物を読んだときでもなく、平凡なクリスチャンが、日常ふつうの生活で、喜んでキリストをあがめているのを見たときです。なにげない女性たちの主を喜ぶ会話が人を回心させるのです。
井上くにえさんは、母上が帰宅すると、いつも座敷の真ん中にすわり、羽織のはしをぱっとはね、両手をつき「主さま、ただいま帰りました」と祈る姿を物陰から見て主を信じたと話されました。わたしも父が就寝まえ、一人祈っている姿を見て「父の信仰は本物だな」と感じました。これもすべてキリストのお働きです。
「キリストのお陰で、今の恵みに信仰により導きいれられ」(ローマ5・2)<写真はムクゲ・底紅>