受身のことば「主に愛されている兄弟たち」

shirasagikara2012-11-05

わたしに便りをくださるとき、手紙の書き出しに「主に在って愛する藤尾正人様」でなく、「主に愛される藤尾正人様」と書かれる方がいた。よほど主キリストを教えられた方だろう。「わたしが愛する藤尾」ではない。自分の愛など、ふらふらする愛だと心得ていられるのだ。人間の愛は変わるが主の愛は変わらない。だから「主に愛されている」と受身になる。
それは使徒パウロのおはこだ。「神に愛され召されて聖なる者となったローマ人」(ローマ1・7)、「神に愛されている兄弟たち」(1テサロニケ1・4、2テサロニケ2・13)と受身で書く。
しかし、そのおおもとはイエスさまだ。「求めなさい。そうすれば与えられる」「門をたたきなさい、そうすれば開かれる」(マタイ7・7)とつづく。「門をたたいて、ぶち破れ」ではない。真剣にたたきつづけると、神さまが開いてくださるという受身だ。キリスト信仰の進歩は、「おれが、わたしが」という思いが静まって、受身のことばがふえる度合いでわかる。
本江慶子さんという美容師がいた。キリスト信仰を求め、近くの教会へ行ったが、「日曜日は営業を休んで礼拝に来るように」といわれ、悩んでいた。ある日、初めて見えたお客の頭をセットしていると、「与えられたの」「備えられたの」と受身のことばが多いのに気づいた。「失礼ですがクリスチャンでいられますか」とたずねると、「はい」という答え。「あなたの教会に、夜の集まりはありますか」「木曜日の夜にありますよ」「わたしも出席していいですか」「もちろん」。
本江さんは、その女性に連れられて、わたしが話している夜の集会に見えた。まるで水が砂に吸い込むように、福音は彼女に深く入り、やがて夜の集会で洗礼を受けた。すごく喜んで、待合室にキリスト信仰のトラクトもおき、二、三いられたクリスチャンの常連客と信仰談をかわし恵まれた。受身のことばが一人の女性を救ったのだ。
「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6・33)<写真は庭の茗荷>