きれいに彫るな

NYのメトロポリタン美術館で見た、高さ30センチほどの漆黒の十二使徒群像に衝撃をうけ、彫りたいと願った。しかし木彫はずぶの素人。朝日カルチヤーの講座で1年、多磨美大の教授に手ほどきを受けた。その先生の教えはただ一つ「きれいに彫るな」。
これはすべてに通じる。教会で、原稿を読むだけの「きれいな祈り」「きれいな説教」はするな。
山形の基督教独立学園で100歳まで書道教師だった枡本うめ子先生は、長男が嫁を迎えたとき、「日本一りっぱな、いい姑になろう」として失敗した(正人「枡本うめ子・一世紀はドラマ」)。その嫁に与えた傷の深さは、長男夫婦とは生涯いっしょに住めなかった一事でもわかる。
すべて「きれい」「りっぱ」はひと目に心地よい。いい姑、いい嫁。いいパパ、ママ。いいこども。しかし仮面舞踏会のようにお面をかぶっていないか。
木彫も祈祷も説教も文章も、すべてひとつの作品だ。いのちがこもり、力がこもり、喜びがこもらないと、見る者、聴く者に訴えない。
ごつごつしていてもいい。はらの底から祈れ。文章はへたでも、まごころから主への喜びをしるせ。話しかたはまずくても、会衆を見つめ、上なる主を見て福音を語れ。イエスの荒々しいまでの振る舞いがそれを教える。
「主は言われた。『実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている』」(ルカ11・39)