衰えゆくおもしろさ

じつは11月24日(火)から12月1日(火)まで東京衛生病院へ入院した。病名は「うっ血性心不全」。肺に水がたまり、100歩も歩くと息が切れだしたからだ。そのためブログは1回お休み。しかし回復し、12月6日(日)午後、浦和キリスト集会(関根義夫主宰)のクリスマスで1時間講演。
20年あまり前、今のわたしと同じ歳だった父に「耳遠江守(みみとおとうのかみ)、御手洗近之介(みたらいちかのすけ)、足弱乃丞(あしよわりのじょう)、老名自分勝手丸(ろうめいじぶんかってまる)」と書いて見せたところ、怒りもせず、「うまいこと言いよるな、だれが考えたのや」と感心していた。
20年たって、あっというまにわたしも父と同じく衰えてきた。右耳に補聴器を入れているが、人様の話がよく聞き取れないことが多い。歯は総入れ歯。鼻も利かない。お手洗いが近くなり前立腺の手術を受けた。脚力はとみに衰えている。右目は白内障の手術を受けたが、左右の焦点がはっきりしない。振り上げた腕の皮膚に細いしわができて笑ってしまう。
子どもには成長の驚きがあり、老人には衰えの驚きがある。そのさい成長は喜び、衰えは悲しみと考えられやすいが、そうではない。衰えのおもしろさ、喜び、感謝もあるのだ。
「衰えの感謝」は「手を放す」ことから始まる。何事も前のようにはできない。できないから、やらない。やらないですめば楽だ。楽だから感謝だ。重いものは持てない。早くは歩けない。人様に助けていただく。それでいいのだ。すると「時間がゆっくり流れる」。これはうれしい。
30年前の1980年代、月に30回も、40回も人様の前でお話をしていた。毎月、1泊2日のトンボ帰りで、名古屋・高槻で6回も集会をつづけた。お話の回数も1年・300回を越すのはざらで,345回を数えたことも何回かある。それが今、月に3、4回だ。べたっと予定がない。気分がゆったりする。これぞ「衰えの感謝」。
主よ、この衰えを感謝します。こんな日が来ようとは。天からの声が聞こえる。「あなたの終わりは近づいた」。うれしいことだ。ゆっくり歩かせていただこう。
「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ福音書3・30)